Papaver Rhoeas
食卓に飾られたポピー。無邪気な重力感が大変和む。
食卓に飾られたポピー。無邪気な重力感が大変和む。
今日でホームページ公開からちょうど9年。
次の季節を一通り遊んだら、10年になるのかと思うと、結構な達成感。去年 “一生続けて行ってやる、くらいの意気込みで始めたので、8年と言われても、「まだ8年か〜」というくらいの感想ですが” なんて書いたけど、10年が目前になるとさすがに感慨深いです。
ある程度予想していたことですが、まだまだ自分自身の表現への道のりは長く、険しく、時に悲観的になったり投げ出したくなったりもします。それでも自分で可能性を勝手に制限したり、目標を手の届きそうなところに置き換えたりせず、まだまだ希望と野心を持って毎日精進していきたいです。
なにを恥ずかしいことを書いているのか、と思われても、自身への戒めのため、また恥ずかしいことを胸はって吠ざける大人になるため書いてみました。
いつものことながら、このサイトを何度も見に来てくれたり、リンクを貼ってくれている方、そして多大な影響と刺激をくれる、頑張っている人たちに感謝です。面識なくても、昔っから頑張ってサイト運営してる方などは本当に元気をもらえます。
どうもありがとう。
また、今日このブログを公開しました。ブログ以外の本体もいずれリニューアル予定です。
乞うご期待。
まだまだ、もっともっと。
幸せの意味を知る。
言葉はいらない。故に僕らは早い時間から深夜まで喋り通したのだ。
cmd9と再会!
何年か振りに会った割には、あっという間に話は核心に突き進んでいって、普段人に分かられない部分の、その厄介さについて紐解こうと、渋谷の夜は更けていったのだ。
ある程度価値観や考える次元、またはとりまく環境が近かったりすると、似ている部分がある故に、似ていない部分が凄くよくわかる。
遠目からみたら同じように見えるけど、確実に違う悩みや喜び。
自分にとっての不自由さや虚無感が、他人にとってみたら意外と自由なことだったり、またはその逆だったり。
僕らの交わす、端から聞いてると何を言ってるのかわからないような言葉の数々は、復活の呪文かもしれない。
写真は終電後に歩いた池袋付近。
ビリーの個展を見に目黒へ。
彼とは5年くらい前に一緒に住んでいたので ある程度作風は知っていたのだけれど、当時と比べ洗練されていたり、考え方を変えていたり、もちろん当時と変わってない部分もあったりでとても興味深く見させてもらった。
幸い空いている時間帯だった上、子供もおとなしくしてくれていたので、ゆっくりと見れたしビール飲んだりしながら、リラックスした雰囲気で話も出来た。
「さすがにこの年(30代)になると(20代で不本意にもやり遂げずにいた様々を)回収しようと躍起になるよね。」というような話も。分かるなぁ、そういうの。
実家に帰って近所を散歩すると、大好きだった樹木が刈り込まれていた。
真夜中に感傷的な曲を聴きながら、葉の多いこの木を見上げるのがたまらなく好きだったのに。
20歳前後の頃、よくつるんでた友達から久しぶりにメールが来た。
(しばらく音信不通(?)だったから6年ぶりくらい!)
お互い親になっていてビックリ。もうそういう年齢だよなぁ。ちょっと懐かしい気持ちになってその頃よく聞いていた曲でも聞こうかな、と思いiTunes見たら入っていないでやんの。MacのOSが7.5とかの時代だもんな。
まぁ、年月を感じる訳だ、いろいろと。
どうにかしてこの厄介な感情を形(作品)に出来ないだろうか!と躍起になっていた時代の友達たちが年月を経て、それぞれ形こそ違えど今なお物を作ったりしている姿はとても誇らしく、勇気づけられる。
僕らが交わした魔法の様なテレパシーや、生意気な言動を、たまに思い出して吹いたりしてくれ。