1229

C85-BBM

131229 / days,work / permalink

装丁を担当させて戴いた羽山淳一さんのイラスト集「@hayama11」の頒布の手伝いに行ってきました。
 
この本はもともとアニメーターの羽山淳一さんが、twitter上にアップしていた落書き(ご本人はそう言ってますが、落書きなんていうレベルではない)を同人誌としてまとめる、ということで作成したものです。
 
アップされたイラストをタイムラインで拝見していて、「ああ、これ一冊にまとまったら絶対欲しいわ」と思っていたものだったので、企画自体も嬉しかったし、まさか装丁やれるとは思っても居なかったので何とも光栄な案件でした。
(ピングでご一緒させていただいた西位さんが繋いでくれました。感謝!)
 
hayama_1
 
黒い紙に黒のメタリック箔、という、質感の違いで鳥のシルエット(もともとがtwitterなので鳥アイコンからの着想です)が映える仕様です。白文字部分も白の箔押しなので、見た目も手触りもいい感じです。
造本案出した時には、おそらく、実現には少しグレードダウンした仕様にしないと難しいだろうな、と思っていたので実現出来てとても嬉しかったです。こういうのが同人の強みなのだろうな…。商業誌では絶対止められてしまう仕様(笑)
 
hayama_2
 
表2-3はこの黒い紙に銀で一色刷り。羽山さんのtwitterのプロフィールに「絵描きは絵を描いてナンボ。」って描いてあって、そのフレーズとともに、実際ホントに毎日のように描いてる姿にシビレたので、絵にサインとともに入っている日付をデザインしてます。
 
hayama_3
 
やりたい放題やらせていただいた上に、ご本人にも気に入って頂けて、本当に嬉しかったです。
 
コミケ自体は去年の夏、ピングドラムのグッズデザインで参加(企画・デザインしただけですが)はあったのですが、ブースに入って売る手伝いをするのは初めて。とても貴重な経験で楽しかったです。これまたピングでご一緒した星野リリィさんに久しぶりにお会い出来たのも嬉しい一幕でした。

1112

ジープ島からの手紙

131112 / days / permalink

11/5-11でミクロネシアのジープ島へ行ってきました。
 
毎日海に出て、潜って、遊んで、呑んで…という日々でしたが(詳しくは後日書きます)、何もしない時間も沢山あり、時計すら一切見ない暮らしに身を置いてみて、色々と感じることがありました。
今後の人生を送るにあたって、大きな種が撒かれたような気がします。
事実、東京に帰ってから、目に映るものに変化が訪れています。
 
素敵な出会いもあり、本当に実りの多い滞在でした。
ジープ行きに協力して下さった方、了承して下さった方々、何よりも笑顔で送り出してくれた家族に感謝です。
 
131106
 
ちょっとCMっぽくなってしまうけど、この島に行く切欠の一つは、この仕事でした。
パッケージ周りと、テロップ、編集などを担当しています。TSUTAYAでレンタルも出来るけど、セル版は、特典映像が40分もあって、それがまた物凄い素敵です。気になった方は是非(身近な人は貸しますよ。是非一度観て下さい)。
 
jeep_pkg.jpg

0912

想像力より高く

130912 / days / permalink

ワタリウム美術館での幾原さんとシーザーさんのトークショーへ。
展示自体は一昨日ゆっくりと観ていたので、この日は純粋にトークを聴きに。
 
テーマは「革命になる音楽」。
お話は天井桟敷時代のシーザーさんの音作りや、ウテナ劇伴に起用された経緯、その反響など。
個人的には寺山さんと一緒に作っていたシーザーさんと、それに憧れた幾原さん。という具合でそれぞれの視点での寺山像が面白かった。
自分自身は、そんなお二人に憧れてから、余計に。
  
寺山修司が死んだとき自分は幼稚園児だったので、テラヤマ体験は無い。
そういうのを意識し始めた時は芥川龍之介や中原中也同様に、教科書的な過去の作家だった。
野田秀樹や鴻上尚史を知って、芝居に傾倒していくにつれ、目の上のたんこぶのようにその名前をよく耳にした。
著書を読み、映画を見て、そしてJ.A.シーザーを知り、万有引力の芝居に足を運んでみたりした。
ウテナを知りったのもその影響で、その縁でピングドラムに参加出来たのだから間接的ながら影響はとても大きい。
 
寺山修司に対する興味は、またはその熱狂の時代は自分にとって経験しなかった故の憧れ、ということが動機としては大きい。
はるか昔の写真や記録にドキドキするような。
だけど知れば知るほど僕を魅了したのはその言葉たちだった。
挑発的で、切れ味鋭く、いつ読んでも(聞いても)謎に満ちた、なのに魅惑的な言葉たち。
装置としての舞台、事件としての舞台、など他の追随を許さない活動。だけどそれらを煽動し全てを巻き込めたのはやはり、その魅惑的な言葉がカギになったのかな?なんて。
 
そういう想像力を勝手に働かせたりするのも好きだったり。
 
だから当時一緒に制作していたシーザーさんや、その目で見ていた幾原さんの話を直接聞ける事は、とても貴重で、自分と記録の向こうの偉人を繋いでくれてとても嬉しい。
教科書的な過去の作家ではない、扇動者としての、当事者としての、実行犯としての、そして、人間としての寺山修司を甦らせてくれる。言葉や表現がいつまでも魅惑的に見えるその謎を、少しだけ種明かししてくれるような。
(シーザーさんや幾原さんの影響もプラスされている)その血肉が、今の自分に流れている事も嬉しいし誇らしい。
 
幾原さんと仕事していると同時代に生きててよかった!一緒に仕事出来てよかった!ということをよく思うのだけど、やはり、寺山さんや、幾ら好きでも他界してしまった作家さんとは一緒にやりたくても出来ないから、そういう想いもあるのかもしれない。
 
今度はシーザーさんのお仕事にも、デザインで貢献したいな。
こういうの夢見たり、言う分にはタダだしね。
 
タイトルは好きな言葉「どんな鳥も想像力より高く飛ぶことはできない」から。

0705

K5-ii

130705 / days / permalink

前のK10Dが水没してしまったので新しい相棒を向かえました。
 
k52
 
同じ型だからすぐ馴染むかと思いきや、いろんなとこの操作が微妙に変わっていて、手元見ずに撮れるようになるまでしばらくかかりそうです。

0519

デザフェスの日

130519 / days / permalink

スタジオパブロさんのブースにカレンダーを置かせてもらっている、ということもあり、デザインフェスタに行ってきました。
 
委託していたカレンダーが一日目で売り切れてしまったため、増産し、開場とともに搬入したのですが、開場前から多くの人で溢れ、大変な熱気でした。
 
生背景原画は作品のファンならずとも圧巻の見応え。熱を帯びた筆跡、絵の具の発色など、画面の中での素敵な空間が一枚一枚人間の手によって書かれている、というのがよくわかり、改めてその技量や熱量に感激してしまう。
 
130519_1
 
メイキング画像のスライドも流していたのですが、プロのメイキングはひとつのショーです。
無駄がなく、みるみるうちに(ダイジェストなので当然ですが)完成して行く様はうっとりし。
 
置いていただいた描き文字カレンダー。
 
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このパブロのオリジナルキャラ、「パブロ君」の人形は、ピングドラムのペンギンやウテナのチュチュやアンシーのドレスを製作された なすかさん作。
(次男誕生の際はバクのぬいぐるみも作ってくれました。←自慢)
ちゃんと頭巾が取れて、取った姿も凄く可愛いです。
 
さらにこのパブロ君が持っているもの、カレンダーが飾られているフレームは、スタジオパブロの開発した「おくれ〜る」という商品です。デザフェスで初公開、ということでWebもそこに合わせて公開されています。ストアで販売もしています。
 
急にお仕事話ですが、このおくれ〜るのロゴ、パッケージ、Webなどもろもろデザインを担当させていただいています。急遽、どうせならアレもコレも…という感じで駆け足で作ったのですが、どうにかデザフェスに間に合いました。
撮影はいつもお世話になっている宮地さんにお願いしました。
 
その他、パブロスタッフや、関わりの深い方の描かれたポストカードも販売されていて、いずれも素敵なものばかり。
このポストカードたちも、データの色補正や印刷ディレクションを担当したのですが、そんな事すっかり忘れて、欲しいものを手に取って買い物を楽しんでしまいました。
 
レシートも凝ってる!

130519_3
 
実はデザインフェスタに足を運んだのは初めてでした。キラリと光るものを見つけたり、若い作家さんを見て、野心に満ちていた頃を思い出したり、良い機会になりました。

ピングドラムファンの方も随分といらっしゃったようで(自分も話しかけてもらったりしました)、そう言う意味でも良い機会でした。
パブロさんがまだまだ出す気なら、次も関わりたいなぁ…(期待してますよ)。

0513

抽き出しの鍵

130513 / days / permalink

ふとした拍子に、長い事開けていなかった記憶の引き出しがスルッと開くと、記憶ってなくならないんだな…て感心してしまう。
 
いや、感心でなく放心かもしれないな。
だってあの濁った感情や忘れたことにしておきたい記憶もどっかの引き出しで開けられるのを待っているかもしれないものね。

0512

セーブデータ

130512 / days / permalink

昔は何かを買う事、集める事でストレスを発散したりしていたのですが、最近は捨てる事の方がストレス発散になる気がする。
それでもなかなか思い入れのある物たちは捨てられなく、「思い出の品」のようなものはつい大事にしてしまったり。
 
先日、ついに昔の言葉たちを捨てた。
かつて書いた芝居の構想だったり、想いだったり、といった自分で書いた様々な物を捨てた。
大事な物を捨てた、のではなく、大事でなくなったから捨てた、ということなので結局は大事な物は捨てられないのかもしれないけれど。
 
文章を書いていた頃、「今文章にしているようなことが、ある日感じることができなくなったら絶対に嫌だな」と思っていた。
だから必死に見える景色や感じる温度を書き留めていた。
 
しかし感じられないどころか、言語化されていた物を読んでも、まるっきり理解出来なかった。
当時の文章表現の拙さをさっ引いてもなお。
 
良くも悪くももう面影はないということだ。
昔の面影のまるでない私は、もう誰でもないのかもしれない。
 
いざというときのために取ってある復活の呪文も、今や効果がないのかもしれない。