夢の中へ
体調悪い時は、劇場に近づいてはいけないな。反省した。
体調悪い時は、劇場に近づいてはいけないな。反省した。
祖父が他界した。
100歳をとうに越えて、なお元気であったのだが、さすがに人の命は永遠でないから、来るべき日が来たということだ。
大往生と呼ぶに相応しいので、正直なところ、多少の寂しさはあっても、悲しさは湧いてこない。
あるのは、今日幕を閉じた祖父の人生に対する、感謝ばかりだ。
小さい頃からいつも僕の味方になってくれて、さんざん可愛がってもらった。祖父のことを思い出すと良い記憶しか蘇ってこない。
中途半端にぐれかけた時も、家を出てからも、いつも優しい顔で迎えてくれた。ただただ幸福な記憶たち。
ありがとう。ありがとう。ありがとう。
おじいちゃんに貰った優しい気持ちを、息子や下の世代に惜しみなく与えたい。
ありがとう。ありがとう。本当にありがとう。
大好きな婆ちゃんと、天国でお幸せに。
フライヤー・ポスターなど、宣伝美術を担当させてもらった、イディオサヴァンの公演を観に横浜、貞昌院へ。
お寺での公演ということで、雰囲気は抜群。お坊さんに案内され、お堂で観劇。
歴史ある寺というロケーション、話のベースになっている実在した東北の姥捨、本格津軽三味線奏者、など本物が本物であればあるほど、舞台の嘘はあっさり暴かれてしまう。
自分が芝居をやっていたとき、よく感じていたのだけど、良い舞台(この定義も曖昧だけど、伝わる舞台、というところか?)を作るには、演者やスタッフの能力値が近いことが一番大事だと思う(演出家だけは別かな?)。全員下手で、安い芝居小屋なら、そういうもんだと思ってみれるのだけど、巧い人と下手な人が入り交じってしまうと、巧い人はより巧く見えて、下手な人はどんどん観ていられなくなってしまう。下手な劇団がやたら立派な劇場でやったりしても、下手さは際立つ。
今回の舞台は誰が巧い、誰が下手、とかそういうことではなく、「揃ってない」という印象。だから劇空間で行われている全てのことは、浮ついていて馴染んでいないように感じる。三味線の演奏が始まればなんとか場は持ち直すのだが、それ以外は観ていてちょっとしんどかった。
イディオサヴァンの舞台を見るのは初めてでないし、演出家の高いポテンシャルも知っているのだけれど、今回はいろいろと残念だったように感じる。演出のベクトルをこの際ひとつに絞った方が上手くいくように思う。
次回に期待。愛とエールを込めて。
春の訪れ。まだここからが長いんだけどね。
昔は、雪が降ると「やった!外遊びいこ!」だったのが、すっかり「あー外出たくないなー」になってしまった。
ただ、今でも「なんか得した感」ていうのは感じてしまって、つい写真撮っちゃったりするんだよね。
一日、息子とあっち行ったり、こっち行ったりノープランで東京をぐるぐると。
も少し大きくなったら、東京中じゃなく、日本中、世界中、いっぱい一緒に旅したいな。
ノープランで。